夏馬の眼

心に残る本や映画のお話しです。

『山月記』――中島敦

 隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

 

はあ、なんと美しいのだろう…。

この稀代の名文は、是非、声に出して読んでほしいのである。それも、朗々と詠ってほしいのだ。意味の曖昧な言葉があってもかまわない。そこは声に出して読めばわかったような気持ちになる。またわからなくても困らない。話の筋を見失うほどではないし、なにより大切なのは、この和漢の入り混じった独特の美しいリズムに、身を任せることなのだ。

いや、まず最初の「隴西」から読めないし――とか心配する必要はない。新潮文庫などで読めば、厄介な漢字にはルビがふってある。読めないのは当たり前なのであって、恥ずべきことではない。これを初見でルビ無しで読めるのは国文学の学者くらいである。――が、もちろん国文学の学者が学者になってから本書を初見することは考えにくい。本書に出会ってしまったばっかりに、うっかり国文学者になってしまった、というのならよくわかる。それくらいの破壊力は充分にある。

とはいえ、『山月記』は実に哀しく切ない物語だ。大秀才が、結局のところ、大秀才であることを超えられなかった、という話である。なんとも惨いものだ、人生とは。。

『Papa told me』――榛野なな恵

Wikipediaには、「都会で孤独に生きる人の心を繊細に描いており、この点も読者の共感を呼んでいる」とずいぶん柔らかく表現されているが、「孤独に生きる人」というのは、結婚しない人であり、子供を持たない人であり、母子・父子家庭の人であり、そして――ここからが重要なのだが――そのことに関して周囲からとやかく言われる人々を主役に据えながらも、他方で、結婚していたり子供がいたり母子・父子家庭ではなかったりする人々を、かなり意図的に、意地悪で無神経で繊細さも美意識の欠片もない人々として描き続けている、そういう極めてネジくれた作品である。

が、そこがいい、のだ。

私自身、本作を読みはじめた頃は――なにしろ三十年も前から連載しているのだから当然だけど――結婚してないし、子供もいない人であったが、現在は結婚して子供がふたりいる人である。それでもやはり、おもしろいのである。

ただ、作者も年齢を重ねてきて尖ったところが最近やや目立たなくなってきたように感じる。毒の吐き加減に遠慮が見られる。昔はもっと、それこそれなんらかのコンプレックスの塊を投げつけるような描写をしていたのだが(特に「ご家族連れ」に対して)、ここ数年はなんだか少し優しいというか、物足りなさを感じる。

それではまったくただの「いい話」に堕ちていってしまうので、また昔のように尖った爪を研ぎ、毒を吐いてほしい。皮肉や嫌味で言っているのではない。本作の読みどころは、まさにそこにこそあると、私は本当にそう思っているのだ。

『ファスト&スロー』――ダニエル・カーネマン

行動経済学を学び始めるのに、これ以上のものはない。いま、書店にはリチャード・セイラーの本が並んでいるようだが、まずはカーネマンの本書を読まなければならない。いや、まずもなにも、おそらくこの一冊で充分である。これ以上のものは現時点では存在しない。

確かに、入門書としてはいささか大部に過ぎると感じるかもしれない。しかし、中途半端な理解で行動経済学を語り失笑を買って恥ずかしい思いをしたくないのであれば、覚悟を決めよう。ここにはすべてがある。足りないものはない。

ただし、先に忠告しておくけれど、行動経済学というのは実に「いやらしい」学問である。読む側の度量が問われる。腹を立ててはいけない。にやっと笑えるような、おおらかな気持ちで臨まなければいけない。闘ってはいけない。いなす感じで受け止めよう。ここに書いてあることはおそらく真実だが、あなたをバカにするつもりはないのである。

そう、行動経済学とはそういう学問だ。我々を恥ずかしさのあまり赤面させ、挑発してくる。しかし、怒ってはいけない。ここで怒ったら、あなたの敗けだ。私たちが、ボードリヤールの言うところの「消費者」であることは、決して恥ずかしいことではない。それを知らずにいることこそを恥ずべきなのである。

とにかく肩の力を抜いて、一章ずつ、少しずつでいいから、楽しみつつ読んでほしい。決して無駄な時間を過ごすことにはならないはずだ。それだけは請け負える。

『1973年のピンボール』――村上春樹

初期三部作の一冊という位置づけにはなっているようだけれど、これは村上さんの作品の中でもちょっと異質な物語だと、私は感じている。

そしてこれも、『愛のゆくえ』と同じく、何度も読み返してきた一冊である。気分がいいから、というのがその理由だ。

かつて狂ったように嵌まり込んだ一台のピンボールマシンを探す旅物語である。いや、実際に旅に出るわけではない。象徴的な意味合いでの〈旅〉だ。

そのピンボールマシン――廃棄を免れてコレクターの手に渡っていた唯一の一台――に出会うことで、主人公の中でなにかが不可逆的に変質する。あるいは、その不可逆的な変質に促されて――ちょうど寄生虫に操られていることに自覚がないように――その一台のピンボールマシンを探して歩く。

月並みな表現だけれど、「ああ、もう戻れないんだな」ということを、そのピンボールマシンと再会することで、主人公は受け入れるのだ。

だからこれは、高校生や大学生が読む本ではなく、三十代くらいで読むのがいい。そうすると、「どこに戻れないのか」が身に沁みてわかる。そういう作品である。

『愛のゆくえ』――リチャード・ブローティガン

読むたびに同じシーンで笑い、同じエピソードで考えさせられ、最後は気分良く本を閉じることができる。だからつい何度も読んでしまう。

本書はそうした貴重な一冊。

なんの仕事なのだかさっぱりわからないのだが、しかし、休むことなく真面目にそれを勤めている男のもとに、絶世の美女が現れる。そしてこの絶世の美女もまた、自分が産まれ持ってしまった問題に、真面目に苦しんでいる。

物語は軽快に、やや切なさを帯びながらも、愉快なシーンを織り交ぜつつ、最後まで飽きさせない。ここには悪い人間はひとりも出てこないのだ。変わった奴や困った奴やいかがわしい奴らは出てくるのだが、主人公のふたりはやはり祝福されていると言っていいのだろう。

生きるということは、こんなにも容易いものなのである。だから、切なく、愛おしいのだ。ここに描かれているのは、いわば現代を生きることの退屈さについて、ではないかと思う。彼らは退屈している。真面目に退屈に浸っている。それをつまらないことで紛らせてしまうようなことはしない。真面目だから。

飛行機や新幹線に乗ってちょっと長い移動をするさいに持って行きたい。その辺にある中途半端な規模の書店で見つけるのは難しいと思うので、家から持って行く。バッグにこの本が入っているだけで、例えば空港のロビーを歩くことも、ちょっと楽しくなる。そんな一冊である。