『だがしかし』――コトヤマ
ベストセラーコミックを取り上げるのもどうかと思うが、とはいえ、正直なところ思いがけず良かったものだから、そんなつまらないカッコつけはやめて取り上げます。
いわゆるオッサンとしては、
・駄菓子が懐かしい(子供との話題にもなる)
・ほたるさんが妙に色っぽい
・男たちが本当にバカである
この三点でなんとなく新刊が出ると読んできた。途中でやめなかったという時点で、楽しんでいたことは言うまでもない。が、先日、11巻をもって終了となったところ、なんとも言えぬ静かな感動というか、いい作品だったなあ…という感慨に包まれたのである。
終わり方がよかった。もちろんそこまでの持って行き方がよかったから、終わり方がいいと思えるわけだ。ラブロマンスをテーマにしているわけではなく、少年の成長をテーマにしているわけではなく、そこはあくまでも駄菓子なのであるが、結果的に、ここに描かれてきたロマンスも成長物語も、薄味であるがゆえに沁みるのだ。
コミックというのは他人に薦めるのがたいへん難しいジャンルであると思う。キャラクター、ストーリー、セリフ、コマ割り、そして画のタッチなど、好き嫌いを左右する要素が非常に多い。が、同時に、アニメよりも安価になんでも出来るのも、やはりコミックの良さであろう。だからいま、日本の多くの才能がコミックに集まっている。
従って、『だがしかし』を強く誰かにお勧めすることはしないけれど、ひとまず第1巻は手に取るべきであろう。そこでもし「いいなあ」と感じたとしたら、是非とも11巻まで読まなければならない。これはランダムに読んでいい作品ではないのだ。
『眼の誕生』――アンドリュー・パーカー
言わずと知れた名著である。
なぜカンブリア紀に生物の爆発的な多様性が起きたのか?に対する回答が、「眼の誕生」の意味するところなのだが、実を言うと、カンブリア紀についてこれだけテーマを絞って書かれた本というのは、本邦ではこれしかない。(昨年の夏、久しぶりに『意識の進化的起源』が出たが、これも視覚の獲得を基礎としている)
視覚が生まれるまでは、世界に色はなかった。
当たり前である。見る者がいない世界に、色などあるわけがない。生物学的に言えば、色を制御しようとする生き物はいなかった、と言うべきだろうか。つまり、何色でもいいとなった場合、生物は色を選択しない=固定化しない=遺伝子で制御しない=出るがままに任せる、という具合であったわけである。
そこに見る奴が現れた。見る奴は色と形を世界認識の手段に使いはじめる。ここから想像できることは山ほどある。例えば、保護色(カモフラージュ)がある。擬態(ミミクリー)がある。警告色がある。そこには『意識の進化的起源』が述べるように、予測があり、その裏切りがあり、またその予測があって、世界はややこしくなった。もちろん、臭覚も聴覚も騙す。が、視覚はなによりもシーケンシャルな情報ではないという点で、他の感覚器官と大きく異なるのである。
カンブリア紀の生物は、なによりもその不可思議な形態によって、我々を楽しませてくれる。が、なにぶん古い話であり、化石も少ない。従って、研究もなかなか進まない。それだけに、こうした一般向けの本格的な研究所の出版は、ファンにはたまらないものである。
まずは、パーカーの『眼の誕生』を。
次に、『意識の進化的起源』を。
是非、そのように読み進めて頂きたいと思う。
『137億年の物語』――クリストファー・ロイド
「宇宙が始まってから今日までの全歴史」とのサブタイトルがついている。大きな話だ。大きすぎて眩暈がする。500ページに迫る大部だが、おもしろいのは300ページまで――そこで、コロンブスが登場する。それ以降、読者はひたすらこの星における人類の愚かな振る舞いをこれでもかと見せつけられる。
100ページほどのところで現生人類が登場する。ちょっと早いのではないか、と思う。古生物に興味がある人には――古生代・中生代に関心の強い人には――かなり物足りないだろう。実際、カンブリア紀の好きな私も、もう人類が出てくるの?と、いささかがっかりした。なにしろそこまでの時間のほうが本来は圧倒的に長いのだから。
しかし、歴史というのは残されたものであり、もっと言えば、いまの我々が手に取って見ることができるものだけが歴史なのだ。そのような意味で、歴史は常に書き換えられて行く。今後、新たな発掘がなされれば、これまでの古代史などいっぺんに消し去られてしまう可能性は常にある。つまり歴史とは、過去に実際に起きたことではなく、現在を生きる我々が過去に起きたと認識していること、なのである。
とはいえ、この規模の通史としては、とても読みやすい。十代にちゃんと勉強しなかったなあ…とやや後悔している人には、是非ともお薦めしたい。最低限の「教養」を身につけることができる。図版や年表などもわかりやすく、私もちょくちょく開いてみるために、書棚の手に取りやすい場所に置いてある。
あれ、そういえばオスマントルコっていつごろどれくらいまで大きくなったんだっけ?なんていうときに良い。そのまま前後の出来事までついページをめくり始めてしまい、飽きさせない。古新聞みたいな紙質も、なかなかうまい工夫である。
『ACCA13区監察課』――オノ・ナツメ
オノ・ナツメというのは不思議な作家だ。デビュー以来、体温が変わったことがない。作品と作品の間でもそうだし、作品の中でもそうだ。常に平熱。オノ・ナツメの体温。
本作は架空の連合王国における「監察課」という役職の物語。主人公のオータスと、その妹、友人、上司や同僚との何気ない日常。王国の中枢と自治区との思惑が静かに交錯して行く中で明かされる、オータスの出生の秘密。
しかしこれはサスペンスでもなければバイオレンスでもない。描かれているのは、ある種の「品格」である。そう、オノ・ナツメにあるのは、その「品格」に対する敬意なのだろう。あるいは、そのような「品格」を失ってしまった(そもそも獲得することができなかった)我々に対する眼差しだ。
決して皮肉屋ではない。厭世的ではあるが、自棄的ではない。見た目と違ってロマンチストでもない。極めて現実的に、実際的に、この「品格」とでもいうべきものの在り様を、執拗に描き続けている作家である。
それが鼻につくという読者もいるだろう。しかし当然そうなのだ。この「品格」の別名は「スノビズム」なのである。スノッブであることを自任し、自嘲しながらも、中毒のように埋もれて行くのが、スノビズムというものだ。
実際、オノ・ナツメのファンは、オノ・ナツメのファンが増えることを望んでいない。オノ・ナツメのファンは、オノ・ナツメのファンを自任する者と出会うと、オノ・ナツメなんて知らないと嘯く。それこそが求められる「品格」である。
私も決してオノ・ナツメのファンなどではない。
『経済学・哲学草稿』――カール・マルクス
『資本論』を読んでいるよりも『経哲草稿』を読んでいるほうがいカッコいい――と、誰だかった忘れたが、高校生のときに言われた記憶がある。
それを真に受けて、私も『資本論』は巷でよく言われるように第一部だけさっと目を通し、あとは『経哲草稿』を繰り返し読んだものだ。そして、実際のところ、どういうわけかよくわからないのだが、『経哲草稿』はおもしろい。
『資本論』はしっかり構成されて出来上がっている本だから、順番に読んで行けば自然と積み上げられて行くようにできている。そして――これは私だけの問題なのかもしれないけれど――結局のところ私たちはなにを考えるべきなのか、なんだかよくわからないままに終わる。第一部しか読んでないけどね。
他方で『経哲草稿』は、とにかくあれこれ考えさせられる。それはたぶんマルクス自身があれこれ考えながら書いていたからかもしれない。なにしろ「草稿」というくらいだから、きっとそうだろう。
私が考えたいのは、ところで労働者は自由になったところで、それからどうするのだろう?ということだ。
確かに産業革命当時の労働環境の劣悪さはよろしくない。いまも「ブラック企業」とかいう言葉があるけれど、それでも大半の労働者が夜の時間を持ち、休日を持っているわけだ。で、なにをしているのか?と問えば、結局のところ、暇を持て余し、暇潰しに躍起になっている。――ようにしか見えない。
それこそが自由を得られていないことの証であるとか言い出す人がいるのかもしれないけれど、自由というのはハイエクが言うように「〇〇からの自由」という以外に定義のしようがないものだと思うし、だから、自由になったらこうなる!なんて話はすべて嘘っぱちというか、そう言っている当人の個人的な希望みたいなものに過ぎない。
で、マルクスは自由になったらなにをしたかったのだろう?
画でも描きたかったのかな?という気がする。
『経哲草稿』というのは、そういうことをいろいろ考えさせてくれる本だ。
『素数ゼミの謎』――吉村仁
ちょっと古い本だが、経年劣化に耐え得る良書。
ここで扱われているのは、有名な13年ゼミや17年ゼミであり、日本のセミはほとんど出てこない。日本のセミは素数と関係していないからである。恐らくそれは、天敵やら細菌やら、日本のセミを素数へと導く淘汰圧が低かったからであろう。
素数ゼミとは、つまり、淘汰圧の結果として、淘汰から逃れるために、発生サイクルを素数に収斂させていったセミ、ということだ。
小学校で習った「最小公倍数」の話である。素数が現れると、最小公倍数はいきなり大きくなる。12と18の最小公倍数は36だが、13と17のそれは221だ。つまり、12年ゼミと18年ゼミとは36年ごとに出会うけれど、13年ゼミと17年ゼミとは221年に一度しか出会えないのである。
誰かと一緒になりにくい(一緒になりたくない!)、というところがミソで、そういうお話しをまとめたのが本書だ。
素数というのは、つくづく不思議な数である。
そういえば、「ゴールドバッハ予想」もまだ証明されていない。
「ゴールドバッハ予想」というのは、2より大きな偶数はふたつの素数の和になっている、というやつで、有名な「フェルマーの最終定理」と同様に、数学者でなくとも、その意味するところが分かる予想のひとつである。
どうしてこれが証明困難なのか、残念ながら私には理解できない。数学ができたら、世界は素晴らしくおもしろいものだったろうと、よくそんなことを考える。
ああ、数学。。
『双子の遺伝子』――ティム・スペクター
同じ塩基配列を持ったクローンであるはずの一卵性双生児が、なぜ、似ても似つかぬ人生を送るのか? 性格も違えば能力も違う、体つきも、罹る病気だって違う。これはいったいどういうわけだ?
というお話である。
そこで、「エピジェネティクス」なる考え方が登場する。すなわち、遺伝子がすべてを決めているわけではない、というのだ。そのうえ、これまで遺伝しないとされてきた産まれた後の出来事が遺伝する、とまで言うのである。
しかし、注意深く読んでみれば、この「エピジェネティクス」はいわゆる「ラマルキズム」とは違うことがわかる。少なくとも、飛ぼうとし続ければいつか人も飛べる、とは言っていない。何代にもわたって飛ぶ訓練をしてきたところで、せいぜい「運動神経のいい子」が産まれやすくなる、くらいの話である。
つまりこういうことだ。
潜在的になにができるかは遺伝子で決まっている。が、実際にそれができるかどうかは遺伝子だけで決まるものではない、と。口から火を吐く遺伝子を持っていなければ、口から火を吐くことは絶対にできない。が、口から火を吐く遺伝子を持っていたとしても、口から火を吐くことができるとは限らないのである。
なんだか当たり前のことを言っているような気がしないでもないが、本書に出てくるたくさんの双子たちの人生は、実に面白い。安い短編小説を読むくらいなら、本書を開くべきだろう。人の生とは思いがけないものだ、と感嘆するはずだ。